近頃、この街でとある事件が話題になっている。女性をターゲットとした"誘拐"だ。なんでも、一日で複数の女性が一斉に攫われ行方不明になっている。その数、累計27人。
この事件は刮目に値する。俺と相棒は前々から見澄ましていて、方途を尽くし捜索していた。判明されたことは、拉致られた女がすべて容姿端麗であること。年齢は20代。顔写真をいくつか観察した俺は、ほとんどの女が花に例えられるくらい美麗であった印象を受けた。
別に花が好きというわけではないが、あのお姫様とつるむようになってから、少しだけ関心を抱き始めていることは確かだ。その所為もあって、自然とそんな印象を受けた、ということになるのだが、特に深い意味はない。
とあるバーで寛いでいた俺は、小型のテレビで放送されている緊急ニュースに目を向けていた。そのニュースによれば、今日、さらに数名の女が拐引されてしまったらしい。俺はウイスキーの入ったグラスを飲み干し、重い腰を上げてバーを後にした。家路へと向かいながら、夜明けの道を歩く。
そこでふと思い出したのは、メルセデスのことだった。
あの女が俺の家に来てから、早くもひと月が経った。
彼女は今、ガーデニングに夢中なようで、庭の空いている地に草花を植栽したり、わずかな素材で柵や石畳を組み立てるなどして、庭造りを楽しんでいる。種を蒔く位置にも拘っているようだ。太陽の日差しが射し込めば、月夜の灯りが射し込めば、あんなボロ家でもいずれは甘ったるい芳香が漂う、奥ゆかしい花園のような情景を造り出すだろう。
ボロ家とはいえ、庭はバカデカイ。その敷地で、ひとつひとつの種を土の中に埋め、毎日毎日、水をやって、幾日も幾日も、自らの手で植物を我が子のように愛念を込めて育てている。「立派に咲いてね」、「明日は雨が降るわ」と、時に話しかけ、時に歌い、時に撫でたり、時には音楽を聞かせたりしていた。
花を愛し、音を嗜む。こういうところは、やはりお姫様であることが悟られる。
音楽といえば、彼女のために蓄音機を取り出したときから、俺は毎晩、仕事を終えた後、彼女が例の呪いによって舞うとき、盤上に針を刺してあげている。その日から、心なしか彼女のダンスに少し変化があった。以前よりも、楽しそうに踊っている気がする。目を閉じ、流れる音色の波に乗るように、優美に舞うのだ。
元々咲いていた花たちに囲まれて舞う彼女は、魔女の娘だとは思えないほど、可憐で、綺麗だった。
今日も、彼女は飽きずに花園の種に雨を降らせているのだろうと想像しながら、帰宅した。
しかし、いつもそこにいるはずの姿が見当たらない。俺は本人の居場所を予測し、庭のほうへ近づいた。そっとそちらに顔を出してみると、花の園に身を潜めるようにしながら、寝息をかいている彼女を見つけた。
被っていた帽子をはずし、花園に足を踏み入れる。
真っ黒な毛並みに、真っ黒なドレス。色取り取りの花に囲まれた彼女は、どこからどう見ても場違いというか、似合わないというか。それは俺も同じなのだが。
気配を消し、音を立てずに、そっと彼女の顔を覗き込んだ。

「メル――」

声を掛ける気はなかったが、自然とその名前を口にしていた。
するとメルが、そっと目を覚ます。

「悪い。起こしちまった」
「気にしないで」

陽に照らされる彼女の白い肌は、思わず目を細めるほど眩しい。
むっくりと起き上がるメルに、俺は視線を合わせるようにしてしゃがみこむ。

「寝てろよ」
「いいの。寝ている時間がもったいないわ」
「どうせ夜まで、特にやることないだろ」
「あるわよ。あなたとお喋りがしたいの」

にこりと微笑まれ、俺たちは見詰め合った。
俺はメルの柔らかい漆黒の髪をすくって、そっと口付ける。滑らせるような手つきで放してから、そのままメルの頬を包みこむようにして触れる。ひやりとした頬を撫で、顔を近付けた。角度を変えて、メルの唇と触れ合う。下唇をついばみ、上唇を吸い上げ、口付けは次第に情熱的になっていく。
唇を離そうとしたとき、メルの両手が俺の耳の裏に回った。強請るように自分から唇を重ねてくる。俺は口付けたまま身を乗り出し、花畑をクッション代わりにしてメルを押し倒した。ひらりと飛び散った花びらが宙を舞う中、俺の両脚はメルのドレスの間に沈む。自然の香りがまるで、アロマキャンドルのような効果を発しているようで、昼間なのにも関わらずムードは抜群だった。
何度も何度も角度を変えて、深く口付ける。
長いキスの後、真上からメルの全身を眺めた。
花園に散乱するメルの毛並みや、俺を求めるように見上げる瞳、そして何より、横たわったメルの姿は色っぽくて、俺は彼女に見惚れていた。莫大な金でメルを買った本当の理由なんて、忘れてしまうくらいに。
お姫様は王子様と、魔女は悪魔と交わるのが通例だが――俺は今、その法則を破ろうとしている。
まさか人生で、お姫様を、魔女を抱こうとしているなんて、普通ならどだい無理な話だ。
動く気配がなかった為か、上目遣いで待ち望んでいるメルが問う。

「……抱いてくれないの?」

直接的な口吻に、俺の中で理性が弾けた。
躊躇なく、メルの胸元に結ばれていた紐をほどく。
ほっそりとした首に顔を埋め、露骨や胸元、腕や手などにキスを落とし、手首を重ね合わせて、メルの口から零れる甘い吐息に翻弄されながら、俺たちはその場で交わった。
その日から俺は、仕事から帰ると、噛み付くように彼女の唇に貪りつくようになった。仕事で苛立ったときは、特に。激しい口付けのあとは、彼女を抱きかかえ、柔らかいベッドに押し倒して。乱暴に服をひん剥いても、それでもメルは俺を受け入れてくれる。
夜が訪れ、彼女の手を取って共に舞う一時でも、くだらない話をしながら、抱き合ったり、口付けをしたり。呪いが収まった後も、その場でメルを抱くこともあった。
そんな日が何日も続いた。
――そして、ある日のこと。

「帰ったぞ」

いつもどおりの帰宅。夜も更け、辺りは闇に包まれている。
普段、エントランスホールで俺を待ってくれているメルが――今日は居ない。

「……? メル?」

声をかけても返事はない。どこを見渡しても、その姿はない。
不思議に思いながら一歩を踏み出したとき――ぴちゃり、という水音がした。
見下ろせば、色濃い水を、足裏で引きずっていた。







 

とある室内で、私は目を覚ました。まだどこか、くらりとする頭を抱えて。
両手は鎖で繋がれているけど、他は特に縛られている様子はない。
いつものようにジーヴァの帰りを待っていたとき、てっきり本人が帰宅したのかと思ったら、何かで頭部を殴打されて気絶した。その箇所に触れてみると、ご丁寧に包帯で応急処置がされている。私はそれを解いて、ぱっくりと開かれた傷口に手をかざす。少しして手を離すと、そこはさっぱりと治癒された。
うっすらと灯るランプだけが頼りの部屋で、私は辺りを見回した。私は今、ベッドの上にいる。部屋はどうやら寝室のようで、その広さはまるで王宮並。ベッドのすぐ傍には綺麗な花が咲いていて、入り口付近にあるふたつの大きな花瓶にも、美しい花が生けられている。
私はベッドから降りて、扉へと歩み寄った。面白いことに鍵はかかっていない。そっと扉を開け、顔を出す。一方へと顔を向け、もう一方へと振り返って様子を見る。安全を確保すると同時に扉を開き、外へ出る。
人の気配を感じ取ると壁の裏に隠れてやり過ごしたり、階段の上がり降りを繰り返しながら、彼方此方へと散策していると、奇妙奇天烈な場景を目にした。

「……悪趣味ね」

私が見たものは、長い通路の両側の壁にずらりと連なる、クリスタルのケースに入れられた数々の女性たち。
近頃、街の女が失踪した事件が頻繁に起こっている。ある者は娘を。ある者は妻を。ある者は恋人を。行方不明になった女性たちがどうなったのかは、誰にも分からなかった。
これは間違いなく"コレクション"。すべての女性たちは剥製と化している。
死亡した動物を生きていた時の容姿に近い状態で保存するために、その表面をはがして保存できるように処理し、内臓や筋肉を取り去り、腐敗防止のため皮と骨に防腐処理を施し、綿などを中に詰め込んで形を整える技術。
動物でよく使われる手法で、主として展示用の標本とされる場合が多い。
それを人間の女性で行うなんて。生身の人間を剥製することで、コレクションとして飾るという常軌を逸する行為。なんて非人道的なのかしら。
なんとなく、自分がここに連れてこられた理由は「これ」なのだと察した。
私は彼女たちを見定めながら、どんどん通路を進んでいく。ふと、わずかな微風を感知した。目を凝らしても、見えるのは白い壁だけ。だけど風はそこから来ている。私が手探りであちらこちらと触れてみると、ガコンと壁が中へ押し込まれた。隠し扉だわ。開かれた先にあったのは、下へと続く階段。
そこから微かな“匂い”を嗅ぎ付けた。普通の人間ならおそらく、通っただけでは鼻をつくこともないけれど、私の嗅覚は外れない。私は導かれるように、そのまま下へ降りていった。奥まで進み、目の前に現れたのは重厚な鋼の扉。匂いはここから来ている。
鍵はかかっているけれど、外からだと簡単に開けられるように施されていた。私はガチャンとそれを解き、扉を開ける。
そこで私が見たものは――。

「……あなたたちは?」

ざっと10人はいる、生きた女性たち。
彼女たちは震えながら、私を見上げていた。ある者は抱きしめ合い、ある者は泣き、ある者は絶望している。
その中で、一人の黒髪の女性が私に答えた。この状況でも割と気丈を保っている子だった。

「カルネに連れて来られたの」
「カルネ?」
「私たちを誘拐したヤツよ」
「ふうん」
(カルネ……ジーヴァが探している男かしら)

部屋へ入ると、ガコンと扉が閉まる。振り返ると、鍵が無ければ内側からは出られないようになっている。
特に気に留めずに、また詮索するように部屋を見回していると、さきほどの絢爛豪華な部屋とは打って変わって、壁一式には不気味な植物が、瓶の中で液体に浸された状態で咲いている。
ひとつは肉食植物のような。ひとつは毒を持った綺麗な花。そんな多種多様な植物が見事に咲き誇っていた。
私はじっと、ひとつひとつを見据えた。

(あなたたちが観たものを、私に見せて頂戴な)

心の奥で促すと、この部屋で行われていたことが、脳裏に映し出された。
カルネという男は、無類の植物好きのようで、いつもブツブツ褒めてるみたいね。ここにいる女性たちは、ほとんどが高貴な令嬢や貴族の集いだけど、中には普通の街娘もいる。地位に拘っているわけではないみたい。
この人たちの共通点は“若くて綺麗な女性”であること。
私は再び、女性たちに視線を泳がせた。
剥製の源も見せてくれた。これがあの男にとっての“美しい花”。
これだけ多くの女性を誘拐している根拠が、自分だけを探し出すための行為なら、彼女たちを殺しはしても剥製にする意味がない。若くて綺麗な女性は、彼にとって「花」のような存在。世にも奇妙な、闇色の薔薇を求めるのも自然なことかもしれない。
大方、はじめは純粋な気持ちで植物を研究していて、その熱意が膨張し、人間にまで手を出したといったところかしら。学者がたまに人間離れしたサイエンスを見出すのも、別に珍しいことではないし。
私はちらりと横目で、周りにある植物たちをもう一度見てから、すすり泣く女性たちに声をかけた。

「泣かないで。ここから出してあげる」
「え……? ど、どうやって?」

涙していた女性がパッと顔を上げ、私を見上げた瞬間。
瓶の中の、一体の植物が覚醒した。
巨大化した不気味な生命体は、驚きに悲鳴を上げる女性たちに構わず、牙を剥き出しにする。女性たちは恐怖におののいて、体をひきずるようにして後ずさった。

「鎖を噛み砕きなさい」

私が命令すると、「彼」は私のを含めて、言葉通り女性たちを捕らえていた鎖を噛み砕いた。
自由になった両手を軽く振って、彼女たちを促す。

「さあ、逃げるのよ」
「あ……あなたは、一体……」
「いいから逃げるのよ。この子があなたたちを護ってくれるわ」

心の中で再び命を下すと、彼は口内から毒を零し、重厚な扉と床の間にそれを垂らす。すると、みるみるそこが溶け出して、人間がくぐれそうな出口が出来上がった。
女性たちは、この世とは思えないものを見て血の気が引いたみたいだったけれど、生き延びたい一心で、一斉に逃げ出す。
最後になった黒髪の女性が、私を一目見て、ぽつりと零す。

「あなた、もしかして……」
「いいから、早く」

彼女が何かを言い終えようとする前に、私は彼女を扉の外へ追い出した。
私を取り残し、生まれたての植物は彼女と一緒にどこかへ行ってしまった。

「さて……」

“念のために”もう一体連れて行こうと、棚に並べてある植物を矯めつ眇めつ見る。
一番使えそうなのを手に取った瞬間――。

「何事だ!?」

先ほどの騒動を嗅ぎ付けたのか、警備員らしき人が駆けてきた。
室内が空っぽになっているのを見て、彼が私に銃を向ける。私は咄嗟に、小瓶を手にしていない手で、彼に手の平を向けた。途端に、棚にひっそりと咲いていた綺麗な花の蔓が彼めがけて突出した。

「うわあああっ!!」

蔓が警備員の首を締め上げ、そのまま体を持ち上げる。
彼は苦しそうに唸りながら、蔓を引き剥がそうと試みたが、そんなことをしても無駄。
宙でもがきながら、細目で私を見詰めた。

「お、前は……ローザネーラ……!」
「まあ、嬉しいわ。私のこと、ご存知なのね」
「なんなんだ、こいつは……!?」
「あらあら。私が“ただのお姫様じゃない”ってことは、存じていらっしゃらないのね」

にっこりと彼に微笑んだ後は、手の平をゆっくり閉めようとする。
その動きに合わせて、蔓はさらにギリギリと彼の首を絞め上げた。

「ぐぅ、う……っ」
「あなたのご主人様は何者? どうか教えてくださらないかしら?」

彼は口で答えられないのか、ふるふると首を横に振った。

「そう。残念だわ」

わざとらしく眉を下げて、このまま首の骨を砕こうとした矢先。
――パーン!
鋭い銃声とともに、男がぐったりと垂れ下がった。頭部から額へと貫通したようで、そこからポタポタと血が流れ落ちている。私が蔓を緩めると、その体は地面に落下。
そして視線の先には――。

「あら、ジーヴァ。どうしてここが?」
「脱走してた女どもに聞いた」

銃口から煙が立ち上がり、ジーヴァが銃を下ろした。「お前は殺さなくていい」

「今更よ」

ふっと苦笑いすると、ジーヴァはこちらに近づいてくる。

「バケモンがいて普通に驚いた」
「あら? 魔女が魔法を使えることは知ってるわよね?」
「知ってたが、バケモンまで生み出すとは思ってなかった」

色々語りすぎて、てっきり言ったつもりだった。

「あらそう。まあ、そうね。とりあえず、魔女は植物を操るのが得意よ」
「雑だな。……ところで、怪我してるんじゃないのか?」
「ああ、それなら治したわ。ここをね、ぱっくり割られたの」

首を傾げながら人差し指で、その部位を指すと、沈着なジーヴァに「最強かよ」と突っ込まれた。
ジーヴァは私の手を取って、室内を出た。再び銃を構えるジーヴァの背中を追いかけるようにして、私たちは静かに屋敷の中を歩き回る。
その最中に、ジーヴァと私は、この事件の真犯人が「カルネ」であることを確定した。ジーヴァが彼について知っていること、私が通路で見かけたこと、そして先ほどの女性たちのことが、何よりの証拠となった。
「カルネ・フレグランス」――世界で名をはせるフラワーコーディネーターのプロフェッショナル。ご先祖様は、国王の葬式で庭を5万本の薔薇でいっぱいに埋めたそうだ。それは“表”の話で、“裏”ではこのように悪徳な行いをしている。

「俺はヤツを殺らなきゃならない」
「そうだったわね。じゃ、本来の役目だった“餌”になりきってあげる」
「いい。俺一人でやる」
「なによ、意固地」
「アンタは一人で先に帰ってろ」
「そんなのイヤよ。私も連れてって」
「わがまま言うな」
「わがままじゃないわ。おねだりよ」
「おねだりってもっと可愛いもんだろ」
「私のどこが可愛くないというの?」

まったく緊張感のないまま、私たちは長い通路を突き進む。時々、屋敷の人たちに出くわしたけれど、ジーヴァの殺し屋としての腕も、私の魔術に適う者もいない。
やってきたのは、またしても大きな扉の前。
ジーヴァが開け放つと、中は広い書斎だった。その中央にあるデスクの傍に秘書らしき男。そして、デスクの中央に、私たちに背を向けて立つ一人の男。おそらく、彼が――。

「カルネ・フレグランスだな」

ジーヴァがしっかりとハンドガンを握り締めて、その銃口を向けた。
私はカルネらしきに人物の背後に意識を集中させると――ごくりと固唾を呑み込んだ。全身が強張り、手が少しだけ震える。ジーヴァもそれに気付き、声をかけてくれる。

「どうした?」
「……カーニヴァラス」
「なに?」

カルネの背後から、“見える”。

「カーニヴァラスが、たくさん見える」

綺麗なんて、皮肉でも言えない。
彼の全身にまとわりつくように蠢くのは、得体の知れない食虫植物の数々。
ひとつは、ウツボカズラのごとく、筒状の葉からは薄気味悪い色の液体が落ち込んでいる。
ひとつは、モウセンゴケのごとく、粘着式の腺毛が見るからにグロテスクでうねうねと蠢いている。
ひとつは、ハエトリグサのごとく、牙を剥き出しにした葉からはドロドロの毒が溢れ出ている。
数え切れないほどの、おどろおどろしい奇抜で色取り取りの植物たちが見える。葉や蔓がカルネの全身を護るように絡みつき、威嚇をするようにこちらにその醜怪な顔を向け、ドロドロとした粘り気の強い液体が、その危険性を表している。
なんて陋劣な。人間とは思えない。

「誤算だったよ。まさか20億も出すとは思わなくてね」
「いたのか。あの日のオークションに」
「経済的な問題があって、20はさすがに出せなかったけどね」

カルネが、そっと振り返る。
私の姿を見るや否や、ニヤリと、その口に下劣な笑みを刻んだ。今まで色んな人間を見てきたけれど、人を食らうことに躊躇いのない、まるで悪魔のような人間と遭遇したのは、今日が初めてだった。
悪魔なら合点がいく。でも、こいつはただの人間。
魔女ですら畏怖の念を感じてしまうほどの人間。
究極のサイコパス。こんなヤツに買われるはずだったなんて。
ジーヴァが買ってくれなければ、今頃の自分がああなっていると思うと――。

「おお、マイ・ディア・ローザネーラ」

カルネは両腕を広げて体を回転させた。さきほどの悪逆非道な笑みは消え去り、紳士的な微笑みを浮かべて私を歓迎するように続けた。「部下が手荒な真似をしてすまなかったね」

「か弱いレディを殴るだなんて、ジェントルマンとは思えない下賎な男ですわね」
「ごもっとだ。暴力はよせと言ったんだが……気性の荒いヤツでね」
「よくってよ。おかげで面白いものがたくさん見れたのですもの」
「面白いもの、とは」
「いやだわ、しらばっくれないで頂戴」

ずっと手に持っていた妖しい植物を見せる。
カルネの眉がぴくりと跳ねた。

「あなたの“芸術品”も鑑賞させて頂きましたわ」

しばらく黙り込んでいたカルネの口元が、にぃ――っと吊りあがった。

「キミは私のものだ。私はキミのことをずっと待っていた。今でも十分美しいが、私の手によって更に美しくしてあげよう! そして他の花たちと一緒に飾ってあげよう! 早く、早くこの手でキミを彩ってあげたい……!」
「まあ、気色の悪いこと」

瞬間。
カルネが目にも留まらぬ速さで、おそらくデスクの上に隠していた拳銃を手にし、ジーヴァをめがけて撃った。弾丸はジーヴァのハンドガンを弾き、それが地面へと転がる。それを追いかけるように、咄嗟にジーヴァが動く。拳銃を拾い上げようと、私の傍から離れた。
その隙を狙って、カルネの隣にいた男の両手には、どこから取り出したのか――ギラリと光る銀色の斧が。
電光石火のごとく私に駆け寄り、大きく振り上げた斧は真っ直ぐ私めがけて振り下ろされる。「……!」
一弾指の間、私は回避に成功する。斧の刃は壁に深くめり込み、私の毛が数本、地面へと落ちていった。男が斧を抜き取っている間、すばやくその背後に回って反撃しようとしたけれど、気が付けば彼の足が私の腹部を蹴り飛ばしていた。「あっ……!」
超人並の反射神経。
その場にあった家具で体を強打して、私はそのまま地面に倒れこむ。

「メル!!」

腹部を押さえて呼吸を整える私に声をかけるジーヴァとカルネの間に、銃声が何発か聞こえた。
近距離戦に慣れていない私は、あっけなく重い一撃を食らい、その場から立てなくなった。なんとか這いずって立ち上がろうとするけれど、男は私との間に距離を詰めて、容赦なく髪の毛を引っ張り上げる。

「うあ……っ」

花の入った小瓶を抱えながら、空いた手で彼の顔面に手の平を貼り付け、ありったけの魔術を込める。それによって、彼の顔面と私の手の平の間から、煙ったい匂いがした。「ぐああ!!」男は即座に私を突き放す。
ドタリと再び地面に倒れ込み、この拍子にすぐ立ち上がろうとしたけれど、ドレスを足で踏まれてつまずく。
パッと振り返ると、顔面に大やけどを負った彼は、すでに斧を振り上げていて――。

「……っ」

時間を稼ぐことができない。
少しでいい。ほんの少しでいいのに。タイミングも隙も与えられない。
――有り得ない。
普通なら、顔を覆って痛みに耐える時間があるはずなのに。そもそも秘書なんかじゃないのかもしれない。それでも、この人間離れした、リフレクションとインテンシティは一体――?
避ける間もなく。
斧が、落とされた。
その刹那、痛みは感じなかった。
勢いよく落とされた斧によって、赤い液体が噴射し、私の黒いドレスを塗らした。
男の力なのか。刃の鋭さなのか。あるいは両方なのか。すっぱりと、私の足首が切断された。骨で足止めを食らうこともなく、二度や三度も斬り付けることもなく、あっけなく――。

「ああぁぁっ!!」

斬られた足は痙攣し、痛みのあまりに涙がにじみ、汗が噴き出す。
脚を引きずると、いつもそこにあった足を感じられない。立つことどころか、座ることすら可能にしない。

「あぁ……あああ……っ」

背後で、ジーヴァが何度も私を呼んでいるのが聞こえたけれど、私はそれに答えることができなかった。
男は、うめく私を静かに見下ろし、やがて、すっとその気配が退いた。彼が離れていく足音を聞きながら、激痛に怺えるように手首に噛み付き、そのまま地面に身を転がせる。
ドクドクと流れる血は、地面をしっとりと濡らしていった――。