「カルネ・フレグランス」。
世界で名を馳せるフラワーコーディネーターのプロフェッショナル。先祖はかつて国王の葬儀にて、棺桶や庭、城の外観などを、計1億本の薔薇でいっぱいに埋めたそうだ。
しかしこれは“表”の話で、“裏”では道理に外れた植物研究家として活動しているという噂が漏れている。相棒が虱潰しに調べていると、ここ最近で行方不明になった女たちの家から、カルネの屋敷まで足跡が続いていたことがわかった。
女性連続誘拐事件の真犯人と同一人物かどうかはまだ定かではないが、俺の予感では、メルを誘拐したのもヤツに違いないだろう。表でも裏でも、植物を愛でる者。そんなヤツが“闇色の薔薇”に興味を持たないわけがない。
不覚だ。あのオークション以来、一度は姿をくらましたとはいえ、メルを付け狙っていることに変わりはなかったのに。
そして現在。
拳銃を持ったカルネが俺に襲い掛かり、俺は何度も顔や額、首などに向けられる銃口を回避しながら、カルネの急所を狙おうと悪戦苦戦していた。もう「暗殺」とか考えてられない。
カルネの動きは並大抵のものではない。だが、プロでもない。慎重に隙を見出せばすぐに殺れる相手だ。
だが、そこが問題だったようだ。
あえて、カルネが俺を標的にし、その隣に立っていた秘書らしき男を、メルの方へと向かわせた。男は目にも留まらぬ速さでメルを追い込んでいく。メルの戦闘技術は不明だが、魔術を使えると聞いてからはあまり心配するほど弱い女ではないと、勝手にそう思い込んでいたが、あいにく状況が一変。
言うまでもない。あの男はプロだ。おそらく、殺し屋だ。
カルネの攻撃を避けながらそちらの様子を伺えるほど、カルネの戦闘力は大したものではない。だが、メルにとって“あの男”はまずかった。
メルの魔術にすら臆することなく、顔の火傷なんぞなんてことないように、すぐさま体制を整えて、メルのドレスを踏みつけ、一瞬にして、その綺麗な足を切り落としたのだ。









俺は咄嗟にメルの名前を呼んだ。だがそんな俺の声は、彼女には届かない。
メルは凄絶な疼痛に涙を流し、悶絶躃地していた。
一瞬の出来事。それは、スローモーションのように流れた。
絶句した俺に、カルネが右ストレートで横っ面を殴打。その勢いに俺の体制が崩れる。痛みはなかった。脳内には、ただただ、足を切断されて血を流すメルの姿だけが、幾度となくフラッシュバックされていた。
メルの嗚咽を聞くたびに、俺の中で何かが煮えたぎってくる。
殴られた勢いによって、フェドラハットがするりと頭から抜けていく。視線の先は、誰の姿も無い。カルネも。男も。メルの姿も。あるのは、高級そうな絨毯が敷かれた床。
それでも、カルネが次の攻撃に出ようとしていることは察知できた。
再び降ってくるのは拳か、それとも弾丸か――。
そこで、俺の意識は瞬間的に吹っ飛んだ。
気がつけば俺は、拳銃で俺を再度殴ろうとしていたカルネの攻撃を、親指を下に向けた素手で、カルネのその手を包み込むようにして受け止め、すぐさまその銃口を強引にカルネの片頬に押し込んだ。包み込んだ際に、トリガーに差し込んだ薬指を、カルネの人差し指を押し込めるようにして力を入れた。
鋭い音を立てて放たれた弾丸は、カルネの片頬から、もう片頬へと貫通する。
カルネの悲鳴はまったく聞こえない。
俺は指を引き抜き、弾丸が放たれた方角へと倒れ込むカルネを放置し、電光石火のごとく、斧を持った男へと駆け寄った。そんな俺に対し、男は両手で斧をすばやく振ったが、地面に這うようにしゃがみ込んで掻い潜った。
斧の重さによって体が半回転したそのわずかな隙を狙って、俺は片手で斧の柄背を握り締め、余った二発の弾丸で男の両手を撃ち落とした。空になった拳銃を放し、同じく斧を手放した男から武器を奪い取り、両手でしっかりと握り締めた。まずは地面に倒すため、斧頭でこめかみ辺りを思い切り殴りつけた。
その拍子に、予想どおり男はメルの手前で横倒しになった。
俺たちの様子に気付いたメルが、弱弱しく顔をこちらに向ける。
男に叫ぶ暇も与えず、俺は無意識にその斧で――何度も、何度も。

「…………」

メルの喉が、ゴクリと鳴るのがわかった。
ウエストコート、シャツ、腕、ズボン、顔までもが、血しぶきで汚れていく。拳銃も返り血を浴びていた。
刺しては、抜いて、刺しては、抜いて。
一箇所だけでなく、急所をあえて外したさまざまな箇所を容赦なく叩き込んでいった。
俺は最後の一撃を与え、吐息ひとつ漏らさず、両目をぱっちりと開けたまま、まったく動かなくなった男の消息を確認すると、ようやく我に返った。
刃を体から引き抜くと、するりと斧が落下。ごとりと床に倒れた斧をじっと見詰めて、その血の量を眺めた。
そしてメルに顔を向けると、彼女は茫然と俺を見詰めていた。血でまみれたまま、俺は死体をまたがって、メルの前に移動し、しゃがみこむ。

「……すまない。こんなところ、アンタに見せたくなかった」

メルは何も答えなかった。
なんとなく、メルと視線を合わせることができず、俺は手早く止血を始めた。コートのポケットからハンカチを取り出し、切り口にぐるぐる巻きつけて、装着していたベルトでギリギリと締め上げる。
苦痛の音を上げるメルの足首から引き離された部位を、チラリと見てみると。
――俺は目を疑った。
そこには、俺が一度プレゼントした赤い靴がしっかりと履かされていた。
いつも裸足で過ごしていたのに、何故、今更、あんなものを使ってくれたのか――という質問は口には出ない。いつから使ってくれていたのか――というのも。

「ジーヴァ!」

メルから切り離された足を呆然と見つめていた俺は、背後から近寄ってくる気配に気づけず、パッと振り返ったときには、先ほど男を切り刻んだ斧が振り下ろされた。
背中に大きな一線。
メルを抱きかかえて咄嗟に回避はしたものの、じわじわと衣服を赤く染める血は容赦なく俺から力を奪っていく。
不覚――いつもならこんなヘマはしないというのに。
メルを傷つけられたことが、相当ショックだったのか。
自分の無念さが筆舌に尽くし難い。
俺は心の中で、ほんの少しだけ苦笑した。
無差別に斧を振り回すカルネは、もはや我を失っているようにも見えた。俺はいったん、メルを部屋の端っこに置いてから、この場を切り抜けようとタイミングを見計らう。
時に、木材の椅子を手に取って攻撃を受ける。当然だが、椅子はバラバラになった。
本棚から複数の本を取り出してヤツに投げ付けてみたが、あまり怯む様子はなかった。
少し動くたびに、背筋に走る激しい疼き。奥歯を噛み締めながら忍苦し、俺はじりじりと後ずさる。壁に張り付くようにして、カルネが振りかざすのを待った。
相手は所詮、ただの人間。あの斧も、ヤツの腕力ではキツイはずだ。両頬と口内から夥しい血が零れている。真っ白だった歯も赤く染まり、荒い呼吸でゾンビのような足取りでこちらに近づいてくる。
しかし、その動きは遅すぎて、大怪我を負っている俺ですら易々と避けられる。
壁に突き刺さった斧を、必死な様子で抜き取ろうとしているカルネに、背後から止めを刺そうと、デスクの上にある万年筆に視線を泳がせた矢先――ゾクリと全身に戦慄が走った。
数々の現場で様々な殺戮をしてきた俺が、畏怖の念を感じている。このような身震いは子供の頃以来だった。
おそるおそる、気配の方向へ顔を向けると――。

「メル……?」

ただならぬオーラは、部屋の隅に座っていたメルから漂っていた。
目にも見えるくらい、ドス黒い怒気がメルの全身をまとっている。
血のように真っ赤な瞳も、さらに赤みを帯びている。ゆらゆらと蛇のようにうごめく漆黒の毛並み。ゆらりと差し出した腕の血管は、いまにも破裂しそうなほど浮き出ている。

「まったくもって滑稽ですこと。欲望に溺れ狂った人間というのは、愚劣の極みね」

その眼は、据わっている。
ふわり――と、メルの体が宙に浮いた。
相変わらず、その足首からは血がポタポタと落ちている。

「メル、よせ!」

俺が叫んでも、彼女は俺を見向きもしなかった。

「私を美しく飾るですって? 図に乗るな、人間……っ!!」

すると、メルの背後から、見たことのない大きな植物が現れた。おそらく、メルが先ほどまで手にしていた瓶の中の植物が覚醒したものだ。
口では説明できないほどの、おどろおどろしい、決して綺麗とは形容できない、生き物がそこにいる。
ユリ形のラフレシアのような、白い斑点が目立つ鮮やかな赤い花冠。ひとつひとつの花弁には無数の棘のような、牙のような突起物が生えている。中央の子房にあたる部位は口のようになっており、人間一体を飲み込めるようなくらいの大きさだ。口内から零れ落ちるドロドロの液体が、地面を溶かしていく。メルの毛並み同様、ユラユラと揺れ動く蔓にも棘があり、その先端は槍のように鋭く尖っている。強烈な臭みを放出し、頭がクラクラする。
メルの指示によって、俺と主を器用に避けながら、槍のような蔓で地面を突き刺して移動する植物はカルネを捕らえた。

「くっ、来るな、化け物……!!」

カルネは悲鳴を上げながら、がむしゃらに斧を振り回している。部分的に切り刻むことはできても、これほど大きな物体を小さな人間が駆逐するのは無理な話だ。

「己の欲望のため、無実の女性を巻き込み、甚振り、殺し、挙句には私が唯一愛した男にまで手を掛けようとするだなんて、とんだクズね!」

今、メルの中で渦巻いている感情は、いかほどのものか。俺には知る由もないだろう。
メルの怒りの赴くままに、化け物はガバリと大きな口をさらに広げ、そこから細長い赤みを帯びた蔓が飛び出し、斧ごとカルネの両腕に巻きついた。ぐんっと強い力で宙へと引き上げ、ぱくりとその身を咥え込む。一旦、口を閉じたと思ったら、カルネが悲惨な悲鳴を漏らしながら死に物狂いで外に出ようともがく。
唾液によってみるみる血肉が溶けていくカルネの姿。

「た……っ、助けて……」

生気を失ったか細い声でメルに命乞いをするも、当の本人は。

「ヒーッヒッヒッヒッヒッ! お前が人に与えた苦しみを、その身をもって味わうがいいわ!」

魔女だ。そこに、魔女がいる。
肩を上下させ、目尻を下げながら愉快に嗤うメル。

「クソ虫が! もがき苦しめ! 泣き喚け! 死にさらせ!」

その速度は、ゆっくり、じわじわと。大口を開けて既に気を失っているカルネの両目からは、空しい涙が流れていた。俺は唖然と、ただただその模様の一部始終をこの目に焼き付けていた。
――これが、魔女の力。
鮮やかな赤、妖しい紫、不気味な緑を帯びた固体は、妖艶ながらも気色悪くて、惨たらしくて恐ろしい。同様、今まで見たことのないメルの“本性”に背筋の震えと恐れが止まない。かつては正真正銘のお姫様であった普段のメルは、毒の含んだ言葉使いが多いが、おしとやかで凛々しい立ち振る舞いを崩さない気高い女だった。
それが、憤怒の形相を露にし、殺人鬼と豹変した。高らかに嗤い、残忍酷薄に狂い果てたメルが、本当に魔女の娘であることを悟られる瞬間だった。
カルネを食らい終えたとき、メルが力尽きたのか、地面に倒れ込んだ。同時に、植物は無残に朽ちた。
俺はメルに歩み寄り、その体を抱える。

「メル、しっかりしろ!」

うっすらと目を開け、「ジーヴァ……」と力無く俺の名を呼び、微笑みながら、弱き切った手で俺の頬を撫でるメルは元通りになっていた。俺もその手に自分の手を重ねる。

「もう少しの辛抱だ。今、医者に――」

そう、告げたのだが――。

「……もう、間に合わないわ」

俺は硬直した。

「なに、言ってんだよ」
「出血が多い」

メルの肌は元々白いが、まるで「死」を知らせているかのように青白くなっている。瞳にも生気を感じられなくなっている。戸惑いながらメルの足元を見ると、傷口から膝へと、まるで化膿していくように腐敗している。

「魔力も、ほとんど使ってしまったから……治せない……」

この足も、見れば見るほど、メルの寿命を示しているようにも見えた。

「そんなこと言うな……」

過去に仲間を失ったときにはなかった、手の震え。
メルの手をぎゅっと、潰れるくらいに握り締めた。

「あなたの周りに、花が見えるわ」

いつかと、同じ発言だった。
俺の言葉とは噛み合わない、急な宣言。

「赤くて、とても綺麗な薔薇が。……ふふっ、似合わないわね」

俺にそう告げた後、メルはそっと瞼を伏せた。

「私、みんなが羨ましかった。家族や友達に囲まれて、好きな人に抱かれて、結婚して、子供もいて。どうして私だけそれが許されなかったのか、いつも理解に狂っていたわ。でも、神様はやっと私に味方をしてくれた。200年も生きて、私、ようやく……」

瞼を持ち上げたメルの視線は、俺の目線と繋がらない。
それでも、しっかりとした声で、俺に問うた。

「あなたは、どうして私を買ってくださったの?」
「……アンタに、一目惚れした」

少しだけ、メルの頬が緩んだ。

「あなたがどれだけの人を殺しても、傷つけても、関係ない……私にとって、今までのどんな人たちよりも人間らしい」
「メル……もう喋るな」

あのオークションで初めてメルに会った日。
美しくて、逞しいと思った。弱さなんて決して見せない。
それでも護ってやりたいと思った。
お姫様じゃなくても、魔女であっても。

 

「ありがとう、素敵な王子様」

 

最後にそう言い残して、彼女の時間が止まった。
パタリと、彼女の手が落ちると同時に、メルの全身から、しわしわと芽のようなものが生まれ、俺は目を丸くした。
メルが言っていた、魔女の周りに咲く薔薇。その伝説の花を、俺はこれから目の当たりにすることになる、のか?
その棘は、通常の薔薇よりも鋭く、長く、メルを抱えている俺の手に傷を入れる。芽はやがて蕾を成し、ふわりとその花冠を開花させた。
これが、噂の「ローザネーラ」なのだろうか?
……いや。
薔薇は、赤い。
まだ潤いを保っているメルの全身を束縛するように巻き付き、その真っ白な肌に寄り添う、赤い薔薇だった。
おかしい。何故、黒い薔薇ではなく、赤い薔薇が咲いたのだろう。
王族の血を引いているからか、メルの最期は彼女が語ってくれた結末とは異なるものだった。噂の闇色の薔薇は結局、この世に再び咲くことはなかったのだ。

「メル……」

ぽつりと零れた名前は、血塗られた室内に消えた。
俺は背中の痛みなど気にも留めず、メルを抱きかかえて、屋敷を出ていく。
血の匂いと混じり合って、甘い香りが鼻を突く。
静まり返った屋敷を抜けると、メルを連れて、外へ出た。



 





夕刻の森林に包まれた人気のない地域で俺は地面を掘っていた。立ち寄った場所から拾ってきたショベルで、黙々と。すでに血で汚れている純白のシャツは、汗と泥でまみれている。
俺は先日、メルに言われたことを頭の中で回想していた。

『ジーヴァ、私がもし死んだら、遺体を燃やして欲しいの。さすがに骨になってまで踊りたくはないわ』

他愛のない会話で、縁起でもないことを言ってきたメル。
掘り起こした大きな穴に、メルの遺体を寝かせ、俺はマッチに火を点けた。それを彼女の遺体の上に投下。薔薇をはじめ、メルの全身を焼き尽くす黄燐の炎。それが燃えつきるまで、俺はその場に座り込んだ。
残っていた一本の煙草を取り出し、口に咥える。火を点ける前に、俺は胸ポケットに挿し込んでいた一輪の薔薇を手に取った。メルの体を縛り付けていた中で、ひとつだけもぎ取ったものだ。
再びそれを胸ポケットに入れ、煙草に火を灯し、俺はメルと過ごした日々を思い出しながら、立ち上がる煙を茫然と眺めていた。
――どれほどの時間が経っただろうか。
長い時間をかけて、火が尽きてきた頃、俺は、もくもくと煙が立つ場所に土を被せていった。適当に拾ってきた木を十字に見立てる。
作業を終えた後、ようやく一息ついた。
ショベルを地面に突き刺し、その柄に顎を乗せながら、現実に戻る。
あの隠れ家にはもう住めない。居場所を突き止められたからには、新しい住処を探さなければならない。そう考えるだけで億劫だった。今回のことを報告書にして、上の奴らに提出しないといけない。そう考えるだけで面倒だった。
この場を離れるのが惜しい。それでも、現実から逃げることはできない。
体制を整えて、メルに別れを告げようとしたとき――。

「それ、お墓?」

背後から、女の声がした。
振り返ると、20歳未満の少女がそこに立っていた。
答えるか無視するか、少し迷ったが、前者をとった。

「……まあな」
「誰の? あなたの大事な人?」

この娘、どこかで見たことがあったと思ったら、顔写真に写っていた一人だった。そして、屋敷から逃亡しているときにすれ違った本人でもあった。
何故かその娘に質問攻めにされている。血まみれになっている俺を見ても、特に怖気つくことはなかった。
普段の俺なら何も答えないが、今日はなんとなく、このわだかまりを誰かに聞いてもらいたい気分だった。

「魔女の墓だ」
「……あの人、死んだの?」
「あの魔女を知ってるのか?」

会った当時は、「地下に女の人が閉じ込められている」と説明を聞いただけで、メルの正体を知っているとは思っていなかった。
少女は力なく微笑んで、メルが埋まってる墓まで近づき、両手を合わせた。

「私たちを助けてくれたのよ。おじいちゃんが言ってたわ。魔女は植物を操れるんだって」

両手を下ろし、彼女は草陰の近くで咲いていた小さな花を見つけ、それを摘みに向かった。

「お墓を作ってあげるくらいだもの。あなたにとっては、大事な人だったんでしょ?」

少女は摘んだ花を、メルの墓にそっと添えた。
そして、付け加える。

「……ごめんなさい。魔女さんが私たちを助けてくれたから……」

こんな温かみのある言葉を聞くのも、なんだか久しぶりだった。

「気にするな」
「……私、メアリーっていうの。おじさんは?」
「俺に慣れ慣れしくすると、この魔女みたいになるぞ」
「私、この先の街に住んでるの。何か力になれることがあったら訪ねて来て。住所はね――」
「お前、人の話聞いてたか?」

呆れるほどの能天気だった。
さっきまで誘拐されて幽閉されていたのにも関わらず、神経が図太いというか、純真無垢というか。

「魔女さんは恩人だから。恩返しがしたいから、気が向いたら私を探してね」

それだけ言うと、少女は駆け足でこの場を去っていった。
少女が告げた住所は、高級住宅街の一角に位置する。そこは確か、金持ちがうじゃうじゃいる地域だ。ひょっとすると、一軒くらい譲ってもらえるかもしれない。
そんなことを考えながら俺は、少女の背中を見えなくなるまで見送ると、胸ポケットに入れていた最後の一輪を摘み、メルの姿を思い浮かべながら、そっと口付ける。
本人と同じ香りがするその赤い薔薇を、彼女が眠る墓に落とした――。