「“消えてゆくランプに苦しみはないのである”」
細長くて白い指がシルバーのスプーンを摘み、漆黒の液に渦を巻く。立ち上がる湯気に混じるブラック珈琲の香りを少しも楽しむことはせず、彼女は彼が口にした言葉に耳を傾けた。「え?」
「君がそう言っていたんだよ。昨日の晩」
「いつよ?」
男は飄々とした笑みを浮かべながら、「君が酔ってたとき」と返した。彼女は酔っていたときの記憶がほとんどない。本人もそれを自覚しているため、「ふうん」と答えるしかなかった。
かき混ぜたコーヒーが渦巻く中、スプーンを小皿に置き、カップを持ち上げてコーヒーを口に流し込む。
自分がいつそんな発言をしたのか思い出せないが、その一文の意味合いは理解している。
彼女はこう続けた。
「《人間は心の底ではまったく死を嫌悪していない。死ぬのを楽しみにさえしている》っていうことよ」
かちゃっとカップを小皿に置いた音に伴って、彼が「へえ」と、彼女の口から意外な言葉が出てきたことに感心していた。加えて問う。
「僕はそう思わないけど。死ぬのは怖いもんだろ。君は、そっち派?」
「別にどっちでもないわ。おととい読んだ『シャトーブリアン』っていうフランス人の文学者の名言が印象に残っただけよ」
「そういうの読むんだ。教科書しか読まないと思ってた」
嗜む程度にいろんな本を読む、と彼女は答え、カップに残っていたコーヒーを全て飲み干した。そして次の仕事に捗るため、ノートパソコンを開く。仕事に集中したいのにも拘らず、先の話に興味を持ったのか、男は彼女の邪魔をするように「そういえば」と切り出す。
「『スウィンバーン』って人が、“人生は素晴らしい。だが、人生の終局は死だ。これはあらゆる人間の望みの究極でもある”って言ってたよ。本当にそうなのかな?」
初めは無視をしていたが、「ねえねえ」とダダこねるので、彼女は画面から目を離さないまま、話にのる。
「だって『ラ・ブリュイエール』は、“人は長生きすることを望み、しかも老齢を恐れる。人は生命を愛し、死を避けるのである”って言ってるんだ。僕はそのとおりだと思う」
「なんで急に生死の話になってるの。楽しい? この会話」
「君がどう思ってるか興味はあるよ」
何故そんな興味を持たれているのかは分からないが、彼女はカタカタとキーボードを打ちながら、画面から目を離さず、彼にぴしゃりと一言。
「人は生きているうちは生きて、死ぬときは死ねばいいのよ」
「あっさりだね」
「私は別に今の人生を楽しいと思ったことはない」
彼女の衝撃的な言い分に男は唖然とした。仕事をしているときは活き活きしているのに。上司からも先輩からも可愛がられて、後輩からも尊敬されている。好きなことを全うしていると思っていた。
でもそれを、眉一つ動かさないでさらりと、淡々と発言するところは、どこか彼女らしい。
「じゃあ、君はシャトーブリアン派、スウィンバーン派ってことで、そういう解釈で良いのかな?」
「勝手にそう思ってくれて構わないわ」
モニターに釘付けで、全くこっちを見てくれない彼女に対し、彼女の手前に座っていた彼は椅子から腰を上げ、彼女の背後へ回る。彼は彼女の両肩にポンと手を置き、耳元で「俺はラ・ブリュイエール派」と囁いた。肩から手を放し、その両腕は彼女の腹部に回る。
「離れてくれない」
そう抗っても、男は「いやだ」と否定した。
「僕は、死ぬのは怖い」
両手で包み込みこんだ女の髪の束を右肩へ運び、露になった首筋に唇を這わす。
「でも、君が先に死んでしまったら困るから、君より先に死にたいかな」
いつもなら思いっきり突っ張って抵抗するのに、今日は、キーボードの文字を一つ一つ打っていた手が一瞬だけ停止した。