優雅でしなやかな手先。透き通る透明の液が、美女の口内をカクテルの海に変える。
美しい赤色の横木カウンターに、コトンとグラスを置けば、本日のテンダーに「お次は何を召し上がられますか、マダム?」と、問われる。マダムと言われる年ではないが、マドモアゼルと言われる年頃でもない。女はバーテンダーに視線を移さないまま「そうね……あなたに任せるわ」と、注文をした。
テンダーは「かしこまりました」と、頭を下げ、さっそくシェイカーを手に取った。ボディに材料と氷を入れ、ストレーナーとトップをかぶせ、シェイクする。
その様子を、空色に輝く瞳が、じっと見つめる。
材料が氷とぶつかり合って混ざる音と、優美な夜想曲を楽しむ。相変わらず、ショパンの作風は心を癒す。流れる曲は全て夜想曲と円舞曲。この酒場は、男女問わず人気があり、恋人達がロマンチックな夜を過ごすには、もってこいのお店。
煮詰まった仕事を全てこなし、本日の任務は終了。
その疲れを癒しに来店した女が、グラスに注がれるカクテルに目を掛けながら、呟いた。

「なにか、厭な予感がするわ」

案の定、その予感は的中した。
ノクターンが全く似合わない男。「おや?」グラスに口付けている美女を見かけるや否や、「君のような美人が、一人で何故このようなところに?」と、彼女に歩み寄り、「久しぶりだな、レナ」と、彼女の頬にキスを落とした。

「あなたこそ、こんな場所で油を売っている暇はあるの?」
「一杯のブランデーとムスクの香り。それに誘われて来た」

偶然だな。
男は微笑み、空いていた女の隣の椅子に、腰を下ろした。
バーの灯りに照らされて、キラキラと輝く金色の毛並みの隙間から、男へと視線を泳がす。どう見ても、自分がここに居ると承知の上で来た、という格好。
真っ白に映えるシャツ。純銀に光り輝く装飾。真っ黒なパンツ。
偶然にしては、洒落すぎる。
レナは特に突っ込むことはせず、また空になったグラスに、マティーニを求めた。
続けて、この男も。

「俺には、カイピリーニャを」

バーテンダーにOKのサインが出る前に、レナが「あなたには、レッド・アイやブルームーンが合うんじゃないの?」と、男を少しからかうように言ってやった。
くすっと嗤って、男は「君こそ、セックス・オン・ザ・ビーチ、あるいはピンク・レディーが良いんじゃないか?」と、加えた。
テンダーが既にシェイクしている中、男はレナの柔らかい毛並みに指を絡めた。「マティーニより、君はマンハッタンのほうがお似合いかもな。むしろ、俺がマティーニを飲むべきだろ――女王様」
私があなたの妻とでも言いたいの?と突っ込もうとしたが、後々面倒なことを言ってきそうなので、止めておいた。
彼がオーダーしたカイピリーニャは、いつの間にか別のカクテルとすれ違っていた。

「あなたはこっち」

年上のお姉さんにそう言われ、オレンジジュースのようなものが差し出された。
男が知らない間に、テンダーが、注文とは全く別のものを用意していた。それは、レナのおもてなし役である、バーテンダーの中でも彼だけが知っている彼の年齢。

「サンドリヨン……か。俺はシンデレラじゃないぜ」
「ヴァージン・マリーよりマシでしょ。アレはまるで血を飲んでいるように見えるわ」
「ノンアルコールか……なんだかぱっと来ないね……」
「外見で誤魔化していても、私が側にいる限り、あなたを酒に触れさせはしないわ」
「……厳しいね」

未成年だから、というのが根拠なのだろうが。それならば、この女だって同じ。「君だって、俺くらいの年頃から飲み始めていただろ? 君に飲むな、と言われる筋合いはないな」

「女には女の事情があるのよ」
「それはただの屁理屈だ」

あまり口答えをすると、何をされるか分からないので、男はそれ以上は口を挟まず、レナに差し出されたモノを飲み始めた。
真っ直ぐな瞳で、カクテルだけを見つめる彼女。そんな彼女の顎をそっと掴んで、こちらへと振り向かせる。「今ぐらい、カクテルではなく、俺を見てくれよ」と、促してはみるが。

「あなたの顔なんて見たくないわ」

即答だった。
仕切りなおして、凍りついた空気を元に戻そうと、男は別の話題を口にした。
しかしながら、レナには「昨日の晩は何をしてた?」「夕飯は何を食べた?」などと、こういった地味な質問も話題は似合わない。なにより、暇なときは煙草を吸ってるだけであるため、レナとの談話は中々続かないものである。
そんな中、彼の口から出たのは――。

「良い格好してるな」

であった。
胸の谷間を強調するようなキャミソールと、素足よりも何処か色気を感じさせる黒いストッキングに、ヒップのラインをくっきりとさせるミニスカート。
男はクククと嗤って。「君の美しさと身のこなしには、この俺ですら眩惑するよ」と、告げた。
視線だけをこちらへ泳がしたレナのさらりとした肌にそっと触れながら、髪を下ろしている彼女の美しさに見惚れる。

「今宵もお美しい――マドモアゼル」
「ここは、あなたのような子供が来るような場所じゃないのよ――クウクウ」

レナから手を放し、「坊や? 君にとって俺はお坊ちゃんか」と、苦笑する。
バーテンダーからマティーニを受け取ったレナが、珍しくも自分から話を振った。

「暇つぶしで来た訳じゃないでしょう? その格好といい、コロンといい……何故ここに?」
「ブランデーとムスクの香りに誘われてきた、と言ったハズだが? 嘘ではないぞ。けど、本当の理由は、そこらにいるメスブタを適当にナンパして、衣服に染み付いた女の香水に君が気付いてくれるかという検証をやってみたかったんだが」
「たとえ、あなたの襟元に赤い唇がついていたとしても、私には関係のないことよ」
「相変わらず冷たいね。さすがだ」

シンデレラを飲み干した後、男は椅子から下り、レナに手を差し伸べた。
じっとその手の平を見つめた後、男と目を合わせる。「一曲、お願いできますか? プランセス」
レナの返事なんぞよそに、小さなステージの上で演奏の機会を伺っていたオーケストラが、それぞれの楽器を手にし、身を構えた。ゆっくりと鳴り出す、スローテンポなワルツ。
何を勝手に、と言ってやりたいところだが、バーテンもにこやかにしている時点で、この男に、全て仕組まれたとしか考えられなかった。
はあっと大きな溜息を吐き、まだ微量しか口にしていないマティーニのグラスをカウンターに置く。少々不快に思いながらも、椅子から下りた時には、既に店内は客で埋め尽くされていた。
男の手は取らず、そのままカウンターから離れた場所に立った。その後を追いかけ、彼がレナの前に立つ。

「そんな顔をするな。ワルツくらいは踊れるだろう?」

既に口数がなくなってしまった彼女の腰に腕を回し、もう片方の手でその手を取った。
そしてレナが彼に誘導されながら、「あなたにワルツは似合わないわ」と、失言し、空いた手を彼の肩に乗せる。

「そうか?」

無論、ワルツなんて真面目にやったことがない彼等は、適当にステップをして踊るのであった。
男はレナの足を踏まないように、けれどレナは彼の足を踏むように、基本のステップを繰り返す。狙っているレナは四足を見つめながら踊っている。
それが気に喰わないのか、男は「レナ」と、本人を呼びかけた。

「足ばかり見ていないで、俺を見たらどうだ? 俺の足は好きなだけ踏んでも良いから、俺の顔を見てろ」

それを聞いたレナは、男をじっと見つめながら、足を彼の足にめがけて踏みつけた。
ダンッと、鋭い音が響き、彼の口から「ぅぐ……っ!」と、くぐもった声が上がった。
好きなだけ踏んでいいとは言ったが、決してそういう意味ではなかった。
痛みに耐えながら、レナを二、三回ほど回転させ、また自分と向き合った瞬間に――キスを落とした。
先の仕返しをするように、男はレナの腰に回した腕にぐっと力を込め、逃げないように頭を固定する。
舌は入れてこなかった。が、代わりに下唇をペロリと舐められた。

「レナの唇、美味しいよ。カクテルの味がする」

足を踏んだ仕返しだと気付くと、レナは二度と彼の足に手出しはしなかった。
そのまま、音楽に合わせてワルツを踊り続ける。
ふと、彼に「明晩、暇か?」と、新たな誘いが。レナは即座に、「あなたと付きまとう暇なんてない。たとえ暇だとしても、その貴重な時間を、あなたと過ごす気はないわ」と、きっぱり断った。

「久方ぶりに食事でもどうだ? その後、ホテルにでも」

所詮、毎度の如く。断っても、無理矢理連れて行くのが、この男のやり方。
スローワルツが流れる中、自分達の間の沈黙を避けたいのか、男は会話が途切れても、再び口を開く。今度は何を思ったのか、レナを引き寄せて言ってあげた。

「美しい」

そう告げて、彼女の額に唇を押し付ける。
次に、自分と大して背丈が変わらない彼女の頭部に、自分の顔をこすり付ける。レナの毛並みから漂うシャンプーの香り。同時に、煙草の匂いが染み付いている。

「今日はやけに甘えん坊ね」
「すでに、欲情している」

そう言って、レナの脚を撫でるように触れた。

「触らないで」
「じゃ、後でサービスしてくれるか?」
「殺すわよ」

そう断言された後――不意を打たれ、彼の唇が自分の唇に重なった。
顔を交差させ隙間がないようにレナの唇を自分の唇と密着させ、ぬるり、と侵入した舌でレナの舌裏をくすぐる。次に相手の舌を吸い込み、久々にレナの舌の感触を楽しむ。
口内が唾液の海に変わると、男が全てを飲み込むように吸い上げる。
三分間は、ワルツの音楽を聞き流し、踊りなんて忘れて、ただただレナの唇を貪っていた。
最後に、唇は合わさず、舌だけを出して触れ合わせた。ペロッと彼女の舌裏を舐めとり、その唇を解放した。

「煙草の匂いは好きじゃないが……レナの口からだと甘く感じる」
「あなたのその発想はおかしすぎるでしょ」

君には一生、理解のできないことだ。
それだけ付け加えると、またレナの手を取り、先のステップを繰り返す。
そして、沈黙が二人の空気を襲う。無論、男は黙って踊るのを好まず、「せっかくバーに来てんだから、飲み比べでもしてみるか? 君が虎になるところを、見たことがない」と、適当に話題を出したのだった。

「普段、過度に飲まないから」
「なら、今回を機に勝負してみようぜ」

何か企んでいる。
そうとしか思えない。
またしてもレナの答えは――「断る」だった。

「私が勝っても、何も得しないのは分かっているわ」
「おや……何故そう言いきれるんだい?」
「あなたがこの世にいる限り、私の念願は消えないからよ」

男が、嘲笑した。

「それは、俺を殺したい……と言っているようなものか?」

何処か、嬉しそうな顔だった。

「いいだろう。君が勝ったら、俺は一生君に触れないことを誓う」

体を重ねることを、厭っているワケではない。

「ただし、俺が勝ったら――」

むぐ、と、男が声を漏らした。
いつの間にか、彼の肩に回っていたハズのレナの腕が、首に回っていた。引き寄せられて、またその唇が、レナの唇と触れ合っていた。何度口付けても、柔らかいまま。
目を丸くしていた男も、すぐにレナの舌の動きに合わせ、器用に自分の舌を働かせる。
お互いに、舌を吸い合い、絡ませ、噛み合うの繰り返し。
唇を放したのも、レナだった。「少し、黙って」

「…………」

不思議そうに、レナを見つめた男。

「ラストキッスよ」

未だに、顔と顔の距離を置かないままのレナが、そう呟いたことによって、男は「カクテルで笑いを取ろうとしてんのか?」と、レナのボケに軽い突っ込みを入れた。
男の首に絡めていた腕をほどき、その手は首筋へ。

「あなたは喋りだすと止まらない。その喉切り裂いて、二度と口叩けぬようにしてやりたいわ」
「言っていることと、やっていることが違うぞ」

口では殺したいと連発しているのに、行為がキスだなんて……笑える。

「酔ってんのか?」

クスクスと、笑いが止まらない男の肩に、再び手を置いた。
無表情なのに彼女の口先が、ほんの少し……そう、ほんの少しだけ、吊り上がった気がした。