蟹股でベンチに座り、新聞を読みながら、「まもなく電車が到着致します。危険ですので、白線の内側までお下がりください」と、駅のホールで響くアナウンサーの忠告と共に、俺はベンチから立ち上がった。
新聞記事を丁寧に折りたたんで、仕事がある日には必ず持って行く勤務用の鞄の中に放り込んだ。
風を切りながら走行する鉄道車両が到着。
車両の自動ドアは、俺の目の前には止まらず。
二歩、三歩と、足踏みをして、電車に乗り込む。
車内に乗り込めば、中は僕と同じサラリーマン達が、ぎゅうぎゅうと身を詰める満員のゴンドラに不愉快な表情を浮かべている。中には無論、小慣れている者も多く、平然とした顔で乗りこなしている。
僕も他のサラリーマンと同じように、満員の車内に紛れ込み、周囲から押せ押せにされながらも、己の身を支える用具となる三角形のつり革を掴み取った。
そして、列車が発車。
僕が通う会社は、ここから四駅。
一駅一駅と、列車は止まる。
多くの人が下車し。
新たな人々が乗車。
満員は絶えない。
それでも勤務は絶対。
日に日に僕は満員電車の窮屈さが不如意なのと、この乗り物に対する苛立ちが増してきた。
なにせ、サラリーマンというのは、夏でもスーツを完璧に着こなさなければならないし、これだけ満員だと、人間と人間の体温が入り混じってしまうことによって上昇する車内の暑さが不愉快極まり無い。
更に、若い者はともかく、年をとるにつれて加齢臭というものが鼻を突き、時にはあまりのキツさに吐き気がすることもしばしばで、逃げたくても逃げられない状況。
事実、乗車はほとんど中年のオッサン。
僕はまだ新米の20代後半だから、臭いに関しては合格していると思う。
でもこういう状況に陥れられている親父達は、僕より長くこの状態に耐えているに相違ない。
そう考えると、ちょっと尊敬してしまう自分が居る。
それに、この場が不快なのは、きっと僕だけじゃない。
ブレーキを掛けた列車の圧力に押されながら、三駅目に到着。
あと一駅で、この地獄から解放される。
プシューと音を立て、扉が閉まる。
業務員の笛が鳴り、再び列車は動き出す。
ガタン、ゴトンと、列車が揺れる度に、中の人間もつられる。
僕が下りる駅まで、あとわずか。
そのときが来てしまったようで、僕は下りる準備をする。
ふと、僕は、じっと扉のほうを一方的に見詰めていたのだが、気まぐれに横目で別の方向へと目を泳がせた。
そのとき、視界に映ったのは――ある一人の女性。
エレガントな純白の衣服を纏って、優雅な指先をつり革に絡め、片手にしている本を眺めている女性を。
僕から距離がそう離れていない、ショートカットの美女。
くるくるっとしたナチュラルレイヤードカットの黒い毛並みが可愛らしくて、太陽があの肌白さを輝かせ、美しく長い睫毛に、桃色に光るプルっとした唇。
すべてが、スローモーションのようだった。
僕がその美しさに魅了され、目を大きく見開き。
僕の視線に気付いたのか、女性がゆっくり瞬きをして、ゆっくりと顔を上げて、僕のほうを見詰め返した。
なんて、透き通るような肌質に、吸い込まれそうな円らな瞳をしているのだろう。
間抜けな表情をぬかす僕に対し、彼女は、頬を少し紅潮させ、優しく、天使のような微笑でふっと笑った。

目が逸らせない。
動けない。
声が出ない。

僕の時間が止まってしまった刹那――。
彼女にうっとりしていた僕は、つい手の力を抜いてしまい、後ろの大群に押されるような形で扉の向こう側を越えてしまった。
大群が収まった頃、僕は慌てて振り返るが、もう一度、乗る訳にも行かず。
自動ドアは、再びプシューと音を立ててガコンと、閉まった。
ゆっくりと走り出す列車を、無論、僕は追いかけることはしない。
発車を見送り、スピードを上げる列車と共に、僕は自分のネクタイを締め、名残惜しみながら、会社へと歩き出した。





20110122
Matador*Kiyumi